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健康は一切なり

私は最近、好んで使う言葉に「光」がある。読んで誰しもが一瞬にして、その意味を理解することが出来る。
それはこの世に生を享けてこの方、光と闇の経験しか持たないからであるし、宇宙そのものが、光と闇で彩られているからでもある。

嬰児を寝かせる時に見る光景であるが、明るい方向と暗い方向があると、本当に無意識の行動とは思うが、明るい方に首を傾けて寝る姿をよく見掛ける。人間は生まれながらに、明るいものを求める本能が働いていることがよく分かる。
明るいということは、そこに安心があるということであろう。
その反面、暗い所は恐怖感を与える本能が働き、避けたいと思ってしまうものらしい。

この現象は人間に限らず、生命を持った生物総てに当てはまるものである。
我が家の庭にある植物も、総て日の光の方向に向いて生長している。特に可憐な花にその傾向が強く働いている。
ということは、光の吸収によって、植物全体の生命を維持していることがよく分かる。
「光」は生命の源泉だからである、と決め付けてもよいのではないかと思う。だから、人間の成長の因は「光」である、と実感するのである。
その意味から人間は、光に浴するチャンスを多く持っている人は明瞭であり、その反対の人は明朗を欠き、憂鬱で対人関係も良くなく、孤立してしまう傾向が強い。

世の中に運の好い人と悪い人とがある。
運の悪い人も内心では、何とか運を好転したいと願い、何処かの易者に行って、自分の運命を占ってもらったり、占師の言うことを、信じてその通りにし、自己満足に陥り、第三者からは谷底に落ちていると見えるのに、本人は一向に気づかず、益々その占師の言うことを信じ、抜きさしならぬ深みに落ち込んだ人を何人か見てきた。

あまたある実例から、参考の為に二つ公表する事とする。
最初に取り上げた方は、既に亡くなられているので、私の意図は、死人に鞭を当てているのではないことを諒承してもらいたい。

彼女は旧家の一人娘で、幼少より家族の暖かい庇護の下に育てられた。気立ても良く、評判の美形であったから、夜空の降る星の如く、縁談の申し込みが殺到していたと言うが、その家を守る為に、結局は親の選んだ相手とや已む無く結ばれた。彼女には好きな相手がいたが、親の意見に押し切られて、泣く泣く別れねばならなかったようだ。気に副わない結婚であったから、当初から夫婦和合することはなかったようである。それでも一人の男の子が授けられた。

しかし、彼女の私生活はというと、自分の趣味に生き、主婦の役目は放棄して、客観的に見れば、何一つ不自由のない生活であったが、ただ一つ欠落があるとすれば、人を愛し愛される、人間の基本姿勢が足りなかったように見えた。
私が知り合った頃には既に、彼女は占師、手相見に凝っていた。
私との会話の端々に「その人がこう言っていた」「あぁ言った」と、報告していたから、私はその点は止めさせるべきだと思い、相当強く否定し、二度とその場所へ足を踏み入れるなと厳重に注意した。
例えば、新築をする時の方位方角、結婚式の日取り、その他、微に入り細に亘って相談しては、私に報告をしてくるのである。私は何回となく注意したが、どうしても占師と縁を切ることが出来なかった。
私は彼女の運命を静かに見守ることにした。そのうち段々疎遠になっていった。ある日、他界されたと知らせがあった。

あれ程あった資産は大部分手放していたと聞く。息子さんは事情があって、家族を残して家を出ているそうだ。
晩年は生活習慣病で倒れ、入退院を繰り返していたようだ。
あの頃、私は幸せな人生を… と願って、いろいろ話をしていたが、HRの考え方を理解し、実践して頂けなかったことが誠に残念であった。

次にもう一例の実話を記載する。
HRの熱心な会員にE.Sさんという方がいる。今年、白寿を迎えられたおばあちゃんで、元気な日々を送っておられる。元気と言っても、半端ではない。冬でも朝から鍬や鎌を持って畑に出て、仕事をしておられる。
時々テレビでも百歳以上で元気な方々の放映を、全国に流しているので見られた方は多いと思うが、日本で長寿の方は沖縄方面に多いと言われているが、大変結構なことである。

平均的に日本は世界で一番の長寿国であるから、医療の進歩というよりも、日本人の生命力が他の国よりも強い、という証であろう。統計を鵜呑みに信じてはいけない。
それは平均寿命であるから、早死にの多い国の平均寿命は全体の平均値が落ちる事と、もっと正確にするなら年齢別に分けることも公平であろう。例えば、五十歳、六十歳、七十歳、八十歳、九十歳代に分類して、その人達の健康状態をも厳密にチェックし、年齢別、健康者の比率が、どうなっているかを公表することも大事である。

E.Sさんは健康そのものである。私はたまにお会いして、何時も感心させられることは、彼女は感謝の気持ちで日々の生活が成り立っていることである。
私は「おばあちゃん、お元気ですか」と聞くと、「HRのお陰で何不自由なく、元気に暮しております。今、こうして在るのもHRのお陰です。本当に有り難いことです」という返事が返ってくる。
旬の物は「お初」と言って、この季節になると、自分で筍を掘って来て私に届けて下さる。百歳のおばあちゃんが寒い朝、竹薮の筍を掘りに行かれたことを思うと、私の感情はその誠意が有り難く、まるで筍が金のように光り輝いているので、「もったいなくて」疎かに扱うことは出来ない。手を合わせて、口に入れている。

私の感謝の気持ちが先方に伝わっているのか、また旬の物を運んで下さる。
お互いに心が通じ合っているので、長年の信頼関係は揺るぎないものとなっている。
私は彼女の言葉から、本当にHRの偉大さを心から信じておられることが実感できる。
また、彼女から出る言葉で、人の悪口を聞いたことがない。常に、神仏に対し、また先祖に対する感謝と、他人に対しても感謝の言葉は聞くが、一言の不平も聞かない。
現在、生きていることへの感謝と、「周囲の人々の協力のお陰で今日がある。今日の幸せがある」と、よく私に話しておられた。

七十歳を過ぎた頃より、趣味として華道の勉強を始められた。当初は一人からであったが、月日と共に生徒が増えてきて、生徒の為にと資産をなげうって、華道教室の家を建てられる相談を受けたことがあった。私はおばあちゃんの気持ちは分かるが、みんなで建てることには賛成できるが、おばあちゃん一人で建てることはどうかと思った。
しかし、彼女曰く「地域や近隣の方々にお世話になった。その御礼、恩返しに何かしたかった。同じ趣味をお互いに喜んで、味わいたいと願っていたので、丁度よい機会です。私の恩返しが出来ると思うと有り難いです。何よりも喜びを感じています」ということで、自分の意志を通して建ち上げられた。
その結果が地域の方々の喜びとなり、今日は大勢の方々がその建物を利用して、喜んでおられる。

百歳になっても、毎日をかくしゃくと元気に過ごしておられる姿の源泉は「善き心 つとめておこせ 重なれば いつか まことの善人となる」の詠のように、真の善人に近づいておられ、HRの光を多く身に付け、発散しておられるので、多くの人々がその光を求めて、寄って来られるのだと思う。
百歳にもなれば記憶は薄らぎ、社会のルール、対人関係も希薄となり、自分の事を考えるのが精一杯であるのに、記憶力の確かさは驚くほどである。
普通一般では高齢者になると、1~2日前の食事の献立を憶えているのは難しいと言われているが、その方はちゃんと正確に言える。また、身近に起きた出来事も、必要に応じて受け答えをされるので、生き字引と呼んでいる。

日本社会では高齢者の認知症が増えて、家族は勿論、入院先の病院でも扱いに困っていると聞くが、確かに夜の徘徊や、時間外の食事の要求、所かまわず暴れ回る行為は、他人に迷惑をかけることはなは甚だしく、その為に止むを得ず、ベッドに縛り付ける方法を取っている病院もあると聞くが、さもあらんと納得をしている。
事ほど左様に晩年の生き様はいろいろあるが、往生、安楽にこの世を去ることは難しいものである。

特に病院での死は苦痛の甚だしい人が多い。その死の原因は薬剤を多用した為であるが、それを知らされていない家族は、死の苦しみが医学が作ったものとは思わず、これほど名医が尽くしてくれても、あの苦しみ方であったからや已むを得なかったのであると、運命と諦めることが出来たと、病院や担当医に感謝をしている人を見掛けることがある。
全く世の中は逆さまになっている。

二人の幸福度を比較する

私はここに二人の生き方を紹介した。
一人は宇宙の法則に従わず、自分の気の向くままにことを運び、円満な家族を築くこともなく、先祖より蓄積してきた財産を減らし、病の中で晩年を過ごした。
また、一方は百歳になっても元気旺盛で、人も羨むほどの明るい家族で、子供や孫、曾孫に囲まれ、近隣の人々からも喜ばれ、何の不自由もなく、常に感謝の心で日々を過ごしておられる。
HRに対する感謝の気持ちは私の胸にも伝わってきて、そこまでしなくてもよいのではないか、と私が恐縮しているほどであるが、その想念が彼女の習性となり、生活の基本姿勢となっている。

E.Sさんのご主人も、生前、地域の方々の為に寄付をされたり、いろいろと尽力され、住民から感謝されていた。私はその公に奉仕された行為が、E.Sさんの長命の守護となっていると、信じて疑わないのである。

世の中には自己愛の塊となり、社会奉仕も、不幸な人々への援助もせず、贅沢三昧に日を送る人は、時には満足感があったであろう。
価値の無いものを、価値がある如く信じさせる世相は、今日始まったことではないが、それに騙される庶民こそ深く考えねば、泣きを見るのは善良な庶民側である。
現在、問題となっている保険会社の未払いも、会社ぐるみの騙しで悪質極まりないが、これ等も時代が生んだ現われであろう。

健康は総てに勝る宝なり

HR創立以来、最も力点を置いて説いてきたのは「健康問題」であった。

「人 全世界の富を得ても 健康なくば 何の益があらん」とは、大聖人キリストの予言であり、世界万民、この言葉に異論を唱える者はいなかった。それほど世界の人民も、先ず健康であることを望んできた。
医学の進歩発達も、科学の進歩も、幸福を生み出す為のものであることは間違いない。
中でも、健康はその最大の努力であったと、締め括ることが出来る。

太古より人類は時の知者を中心に練り上げて、今日まで私達の座右の銘として心を通わせているものに「真善美」「健冨和」の格言がある。
この言葉が作られたのは、ギリシャの哲人達であったと記憶しているが、ギリシャと日本では地球を半周するほどの距離があり、交通機関もない二千年以上も前に、どのようにして日本に伝えられて来たかは定かではないが、一瀉千里の譬えの如く、口伝、もしくは文章に表すと、本人の手を離れるや、何処に飛んで行くか分からないほど、一人歩きをするものである。

それが今日グローバル化して、世界に起きる数々の出来事が、お茶の間で知ることが出来るように進歩してきた。
これ等も、科学の進歩によって可能となった。このように人間以外の自然現象や、生活の改造はとど止まるところがないほど、便利という恩恵を我々に与えてくれている。これ等も人智の発達に負うところが大きい。

文明の進歩を分析してよく考えてみると、「真善美」「健冨和」の目的に外れるものではなく、意識すると、せざるとに関わりなく、人間の本能がそれに向って進んでいることは間違いない。
譬え古語であっても、その内容が真理に立脚していれば、何千何万の歳月を経過しても、光を放って人類に裨益してくれる。

私の学んだ教えの中に「人間は何の為にこの世に生まれて来たのか」との質問に対して、「人間は宇宙の意図によって、各人それぞれの特長を持たせられて、地上に出現したのである。
人間はその意図の侭に考えさせられ、行動を起こすのであるから、自己牽制しても止めることは出来ない」とあった。

では、その意図とは何か。
それは宇宙意志は人類をして、この地上に理想世界を建設することである、と説明を受けた。
理想世界とは「健冨和」「病貧争絶無の世界」である。
その観点から現在の世相を見ると、文明の利器によって海底から地上、空間に至るまで所狭しと物品が散乱し、空気の汚染、水質の悪化、土壌の劣化等々、人間を健康にする事よりも、弱体化する方向へと一切が働いている。

ということは、人間は自分達の意思によって物を創造し、それを散乱させて足の踏み場もないほど汚し、酸素の切れた水槽で泳いでいる小魚の如く、時が経てば酸欠で死んでいくのと同じような愚を犯している、人類の浅慮を思い知って、大反省と同時にスタート時点に帰り、再出発を人類の叡智をもって実行すべきである。

しかし、私が助かれば… 私の家族が安全ならばそれでよい。
他の人はどうなろうと、私の知ったことではない。という世をリードする先進国が、発展途上国にその見本を見せているので、何時まで経っても理想世界に近づくことは難しいであろう。
ということは、理想ではなく崩壊から破壊に向かって、盲目的に競争意欲を丸出しにして、先陣を切って走っている状態によく似ている。
その行き着く先は魑魅魍魎(ちみもうりょう)とした地獄であることを自覚して欲しいと思う。

人類の叡智を結集して、物質文明という宇宙に二つと無い、理想世界実現の目的を達成しつつある今日、宇宙意志に逆行することのなき様、各国単位で自分の国家の使命に目を開き、方向転換をして、国民一人一人が「この国に生まれてきて良かった」と、感謝の気持ちを未来永劫に伝えていける国家になることを念願してやまないのである。
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