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浄化の一考察

HRの会員の中で、最も日常生活に使われている言葉に「浄化」または「浄化作用」がある。
この言葉の意味するところは広範囲であり、奥深いが、それが解って使われているのか、身近な実例から使用されているのか分らないが、私はその言葉を聞く度に何かしら「ホッ」とた気持ちに駆られる事が多い。
そこでこの度は「浄化」「浄化作用」について、参考となる点を幾つか採り上げて述べてみたいと思う。

健康維持の為の浄化

一般に浄化という言葉は、生活の中で身辺に起きる出来事をとらえて、それを表現する。
例えば、風邪に罹った、熱が出た、腹痛がある、食欲が不振、下痢になった等々、直接生命に関係のない時には、明るく「浄化を頂いた」と言って安心をしている。
その時の浄化の意味は当を得ていると、当人も思うし、私もそう思う。
その軽い症状が一歩進むと、心配と不安が混ざり合って、明るい態度よりも、不安の方が心を占有して沈みがちとなる。

私への報告も一度では物足りず、二度、三度と繰り返し聞いてくる。そして良くなる。
大変結構なことであるが、それからの自己管理が、どうも常識を逸脱している人が多い。
浄化が終わって先ず成すべき事は、何はともあれ、結果報告をすることである。
ところが、それをおこた怠る人が多い。

十日経っても、二十日経っても、電話一本もない。当方としては、心配して「どうしているだろうか」と心を送っており、電話をしてみると当人はケロリとして、「お陰様で良くなりました」とシャアシャアと答える。
中には「御礼に行かなければと思っていたが、つい仕事が忙しくてご無沙汰いたしました」と弁解をする。私には仕事が忙しいという理屈が分らない。

もしも、病気の為に仕事を休んでいれば… また、あの病気のまま何日間も入院したとしたら…あるいは風邪が長引いて肺炎になったら… もっと悪化して結核になったら、一生仕事が出来なくなることを考えれば、HRで短時日で治ったとすれば、その恵みは計り知れないものがあって、それに対する「感謝の心」の欠落は、人間として大きな欠点ではなかろうか。
と思うと、内心憤りを感ぜざるを得ないが、それを口には出さないが、失望することは度々であった。
が、ここで誤解されてはと思い、老婆心から釈明しておくが、私はその人達の人格をとやかく言うのではない。

人はそれぞれ人間として、社会人として立派に本分を全うしておられるので、十分責任は果たしておられる。
が、只一点、「病気は浄化作用である」という真理の理解が、余りにも浅薄である事への、やるせなさを嘆いているのである。
それは特定の人間を名指しているのではなく、人間というものは弱いものである、という事と、人間の一番の弱点は、こと生命に関してはどんな強靭な人間でも、その生命を甦らすことが出来ない。
このことは人生の中で会得したものである。
そのことを考えると、譬えどんなに金銭財宝を山のように積まれても、生命の宝には敵わないことがよく判るのである。

秦の始皇帝が除福に、「不老長寿の妙薬を探して帰れ」と命じ、日本へ来たという史実があるようであるが、除福も国中探したと思うが、出会うことが出来ず、日本で他界したということである。

仏教の教えに「色即是空」「空即是色」という教えがあるが、仏教では三千年以前に、物質世界の真理を回文で表している。当時のインド人の智慧には敬服するのみである。

さて、HRでは「病気は浄化作用なり」と、人間の不幸の根原を喝破している。
これに付け加えるなら人間一切の不幸は浄化作用後に起る結果である、ということが言える。
それは、浄化作用中は苦しみが不随するが、その苦しみを不幸とみるか、苦しみの後には得も言えぬ楽しみが訪れるとみるかによって、浄化作用の終決後に心理状態が180度違ってくることを知らねばならない。
HRでは後者に立脚した心を持っている為に、堪え難い苦しみでも、比較的楽に乗り越えることが出来る。
それを乗り越えた人は浄化後、感謝はできても、嫌な思いは残らないのである。というのは、浄化は僅かな期間で、その後にくる快感は譬えようのないほどであるからである。
このように浄化は有り難いもの、嬉しいものとの自覚に立てば、浄化の意味を会得したことになる。

浄化によって悪化することもある

浄化を良い方に解釈することを前節で述べた。
ところが、その反対の「悪化作用である」という見方もある。それは何故かというと、五体の中には幸福になるよりも、不幸になる要因を多く持っている場合があるからである。
それは何かというと不幸、並びに病気に罹るということは、血液に濁りがあるからである。
濁り、即、曇りである。濁りの原因は種々ある。

一.想念の曇り(物質的な濁りではなく、霊的の原因である)

二.物質的に濁す
1.薬物使用を多くする
2.食物摂取に、自然物以外に不自然物を多く摂取する
と、その中に包含されている反自然物 が体内に蓄積されてそれが臓器に付着して残留する。
日時の経つに従って毒化し、血液中に滲出して毒血保持者となる。

1の薬剤を多用すると、不健康と病気に何故罹りやすくなるか?薬剤とはケミカルである。
人体は自然物以外は消化不充分で、体に適合する物質は吸収するが、そうでない物は肉体の持っている排泄作用によって、体外へ放出するように出来ているが、ケミカルは体内に残留する。
それが月日と共に毒素化して腐敗し臓器に悪影響を与える。それが痛みを伴なう病気である。

一般的には胃痛や胃潰瘍、ピロリ菌による胃痛、または胃癌等々の症状となって現れる。
胃に限らず、総ての臓器も同じであって、病名は異なるが原因は同じことが多い。
けれども現代医学では、病気の種類が多ければ多い程、薬剤の種類を多くし、手当ても病気によって違ってくる。
それによって、患者は何も分からないので「あの医者は素晴らしい。私の病気を言い当てた」と信用する事となる。
文明が進歩すればするほど病名も増え、薬剤の種類が増えれば増える程、病名も必然的に多くなる。
医学の進歩とは病気発生を作り、その為に国家予算を大幅にアップさせて、国民の負担を重くする、悪循環を繰り返しているのである。

更に言えば、飲薬による毒素の経路は、まず飲薬は最初胃に入り、小腸から大腸を通過して排泄される順序であるが、水様となった飲薬は、小腸通過の折に血液に吸収される。
そして血液と共に全身を巡る。だから譬え少量の飲薬であっても、血液と同じ速度で全身に行き渡る。
例えば、頭痛薬であっても、頭に直接いくのではなく、各臓器を巡り、その場所、場所に必要な酸素と栄養を届ける為に、実際に必要な場所には予定の何分の一かに減じているので、予想と結果は常に違っているのである。

各臓器も不必要な薬が流れてくるので処理に困り、何処か活動に差し障りのない場所に保存しておくが、時日の経過によって生気が薄れて腐敗が始まり、毒素化してその臓器に苦痛を与える事となる。
それが病気である。だから病気発生の原因は、良き事と思って善意で飲んだ薬が元であるから、その原因は分からないのであるが、現代医学では、これ程の国民負担を掛けているので、分からないとは言えないので、病原を発見する為に大規模な予算を計り、国民の負担に応えたいと必死の努力を払ってはいるが、思うような成果が上がらないのは読者はよく知っている。

私も、HRの賛同者から各新聞の病気、医学に関する記事を送ってもらっている。よく読んでみると、大別して四、五項目に分類することが出来る。

1.病気の発見と治療法
2.薬剤の調達と手術の成功例
3.病気の原因は食物にある
4.栄養学の進歩と調理法

等々である。
私は読む度に、病原の発見や手術の成功例、食物が原因であること等は、人類が長い年月に亘って会得した知恵に、何等の進歩も見られないことに愕然とする事がよくある。
そんな説明よりも読者が求めているのは、病気を治して欲しいのである。
高尚な理屈よりも、治るという実際の証拠が見たいと、私は切実に思った。

浄化は悪化作用も含まれる

あるテレビドラマで医者の説明に「医者は病気を治すことは出来ない。只、医者は病気が治る手助けをするだけで、病気を治すのは当人です」との説明を聞き、私は吃驚した。
その医者は大病院の先生ではなく、小さな町の診療所をやっている開業医であるから、尚更であった。

普通なら一人でも患者が欲しい、経営上から言っても、患者さんが減れば死活問題にまで発展するのに、そのお医者さんは時間があれば、町の老人や家庭問題等の相談に乗って、町民とコミュニケーションをとって楽しく暮らしている。
テレビのドラマだからそれが出来るのだ、という理屈もあるが、大病院には人間の匂いがなくなって、医者と患者の間に無機質である機械が備えられて、私達の体内情報は機械が拾い出した情報で処理される場合が多い。
これでは血の通った診断は出来ないのではないかと思う。

よく耳にする言葉で「大病院では何時間も待たされて、診断は数分で終わる」と嘆かわしく言う人があるが、成程と頷く事が出来る。これでは医者に診てもらうのではなく、無機質な機械に診てもらい、診断をしてもらう事となる。
これが実態とすれば、何と情けない人間様ではなかろうか、と言いたくなる。

ここでHRの考え方に、浄化は人間を健康にする働きと、悪化する働きのあることを知って欲しいのである。
悪化するとは、自然の浄化力が強くなって、肉体がそれに対応しなくなることがある、ということである。
その点、会員の浄化は90%以上は好転するが、会員以外は悪化の傾向を辿る人が多い。

一例を挙げれば、誰もが経験する風邪を引き、三、四日で治ると信じていたのに、一週間経っても高熱は下がらず、食欲不振、咳も続き、体力も落ちてきているように感じ、不安になったので医者に診てもらったところ、「肺炎を併発している」と言われ、一層の注意を受けて病院を後にする。

それまであった食欲は極端に減退して、今まで好きであった食べ物が、嫌いになるという偏食が起きてくる。
そうなると体は衰弱する一方で、気力・体力も衰弱と同時進行であるから、発想も極端に狭められて、今まで天下国家は自分が自由にするという、気宇雄大さは何処へ行ったのか、哀れな躯となって見る影も無くなってしまうが、当人の意識の底には、まだ悪化しているとは思わず、思いたくなくて希望を捨てきれない方も多い。
そして、自分にはマイナスにしか働いていない医学の理論を信じて、医者にしがみ付いているのが実情である。

家族に勧められ、セカンドオピニオンの病院で精密検査をしたところ、既に肺結核になっているという診断が出され、一縷の望みも断ち切られて、底のない絶望の淵に突き落とされていった人に、余りにも多く出会い、慰めの言葉を失ってきたことがある。

これはほんの一例に過ぎないが、この経過とても浄化作用の一形態である。所謂、何事に於いても、人生航路で決断をしなければならない時に誤ると、とんでもない方向に流れていくのが人生である。
彼も風邪を引いた時にHRの人と出会い、話を聞き、「それも、そうだ」と、内心半信半疑であっても駄目で元々と、会員への道を選んでいれば、今頃は元気旺盛となって、家族団欒で楽しい人生を送ることが出来たのに、一寸した判断のミスで、とんでもない方向へ追いやられる事となったのである。

私は、今日九十歳を過ぎた人が道を誤っても、社会的にも、国家的にも、それほど大きな損失とはならないと思うが、青壮年、熟年層の方々が、判断ミスから間違った選択をして、生命を無に帰すようなことは当人は勿論、家族、社会、国家に与える損失は、計り知れないものがあるだけではなく、その関係者の悲しみの深さは、人生の意義を無意にしてしまうこともある。

そこで私が言いたいのは、人間は生活の中に「先祖崇拝思想」を取り入れておくべきである。
ここに一本の道があり、そこを歩いていると思ってもらいたい。
一本の道と思っていたところ、途中から二道に分かれていた。そこで、その人は右に行くべきか、左に行くべきか迷っていた。
その時、学問の量によって正しい判断ができるのではなく、その迷った時に「フッ」と浮かんで、それに従って行動をする。
その時、無意識に浮かんだ判断が正しければ、幸福への入り口に辿り着けるのである。
反対の道を選んだ人は、苦しみの場所へと導かれて行ったのである。

その「フッ」と浮かぶということは、人間以外、当人以外の導きがあって、そう思い込まされていたのである。
それが迷信とか、偶然と言って、片付けることは出来ない。それがご先祖の加護によるものであると、私は信じている。
このように人生には、何度かの節目がある。節目を厄年という人もいるが、私は厄年こそ、人生の飛躍の年であると思っている。
それは運命の好転期である。女性は三十三歳、男性の四十二歳とは、人生の中で一番脂の乗った時期である。
その人生の最絶頂期に、不幸が訪れるはずはない。
問題は、その何かが起きた時の、対処の仕方が間違っていた為に、不幸に見舞われたのである。と、私は考えている。
このように人生に起きる様々な出来事に対して、明るく、積極的に取り組めば、そこには必ず道は開けるものであるということを信じて、暗く、消極的、悲観的に対処しないようにすることが一番大切である。

以上、浄化に対して二通りの心の持ち方を列挙した。
前者は、生きている事に「有り難い」という、感謝の気持ちで生活をしている。後者は「どうして、こんなに不幸に生まれついているのか」と、人生を呪い、人を呪って生きることの虚しさを知ることが、自己の運を好転させる方向の一歩である。

読者は何れを選ぶか、熟慮を望むのである。
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