人類が文明を進歩させる目的は、人々がより快適な生活を営む為であります。
その前提として、進歩させるに必要な智慧の発達がなければなりません。
その智慧を進歩させる為に大自然は、人類に天変地異で、不安と恐怖心を起こさせる事象を繰り返し経験させて来たのです。
魚類であれ、動物であれ、生命を保持しようという本能があって、より安全地帯を求めて生を営んでいますが、人間は智慧の発達によって、防衛手段を色々と考えて来ました。
それが火の発見であり、動物相手には槍や弓矢の発明を初めとして、捕獲手段をあみだし、敵を捕らえたり侵入を防いだり、住居を作って安全確保と風雨に備える技術を発達させました。
一方、穀物等の食料確保の必要性から農耕技術の開発となり、特に弥生時代からは、急速に進歩をとげて今日に至っています。
つまりこれは、人間が努力をする目的には、常に生命の安全確保があったということです。
その点から現代文明を検討してみるとき、生命の安全を保証する部分よりも、危険な部分の方が多いことに気付かされます。
人類が智慧を絞り、しし孜孜として作り上げてきた文明を進化させれば、人類待望の理想世界実現は可能であると信じ、
脇目も振らずに突っ走って来ましたが、噴出する様々な問題から、現代文明に多くの欠陥が伏在していたということに、ようやく気付き始めてきました。
それに対し宗教は、唯神思想をもって唯神文化を作らんと、唯物文明の対極に位置して、愛と平和と罪の自覚を説き、
善悪のしんたい真諦を教えて、宗教信者の獲得に努力をしてきていることは承知の通りであります。
ここで宗教内部のことをとやかく論ずる気持ちはないが、矛盾が内在していることもたくさんあります。
それは一方で、愛と博愛、平和思想を打ち出して実践しつつ、一方では善悪を明瞭にするため宗教は常に善であり、
対する相手は悪という図式を作って集団の引締めを計ると共に、相手集団を仮想敵視して精神的戦いを挑み、精神の高揚が争いの発端をつくり、
地域または集団同志の対立を生み、殺傷沙汰から国家間の戦争までをも引き起こしてきました。
生々しい体験である太平洋戦争も一面は、キリスト教と仏教・神道思想の戦いであったということもできるでしょう。
その戦争中、聖戦といって戦いは善であると吹聴し、多くの若者がかりたてられ、死という代償を払わせられたり、家族の離散、
爆撃による犠牲者の数はおびただしい程ありましたが、終戦と同時に人を殺すことは悪だ、戦争は罪悪の最も大きなもので、
神や仏の意図とは全く違った考えであると、戦争賛同者が一朝にして寝返り、逆な説法をして民衆を引き付けていました。
また、戦後もイスラエルと中東諸国の紛争や、アメリカとイスラム原理主義との紛争等、宗教を背景とした争いが現在まで続いています。
一方、まだ懲りない唯物側の人々は、神仏の存在を相変わらず否定して、唯物科学の進歩と仕組みによって、人類の幸福は得られると主張をし、
科学の進歩と法の充実に力を入れて、今日絢爛たる文明社会を築き上げました。
しかも、唯物科学が踏み込んではならない最も危険な分野、即ち人間の生命までも唯物科学によって左右できるとして、進歩させて来たのが現代医学であります。
見える物、科学的に実証される物しか信じない現代人はどうしても、その方向に流れてしまいました。
既に述べたように、冷静になって現状を検討してみると、幸福になるよりも、不幸になっている人が如何に多いことか。
また、絶望とまではゆかなくとも、人生に希望を失い、家庭内のトラブル、失敗、失業、病気、事件、事故等々の、生命をも脅かされるような出来事が身近に多発しています。
このような現実を直視する時、唯神思想にもそれほど大きな期待がかけられず、と言って、唯物思想にも限界があることが分かって、
何れにも一身を委ねることは余りにも犠牲が多すぎる。
故に、現状は何を信じてよいのか、漠然とした不安をかかえているのが現代人ではないでしょうか。
その時期に突如現れたのがHRです。「HRは再三に亘って書いたように、唯神・唯物の調和と協調に大きく貢献し、分散化の方向にある総てを統合する働きが含まれています。
勿論、その力は善であることは申すまでもありません。
何となれば、生命を生かす力は善であって、健全な生命を育むところに正しい進歩と、発展があるからであります。」
以上を簡単に言えば、人類は今、生命健全化を可能にする超人力を待望し、その力にすがって生命の安全を希求しています。
その人類の願いを実現する力は、既に出現して活動を開始しています。それがHRです。
「人類の理想である、病気・貧困・争闘のない世界が、HR普及運動によって可能となるのです。」
HRの普及運動を、唯、単に個人の幸せを確立する為に行うのではなく、個人の幸せは社会の幸せであり、社会の幸せは国家の繁栄に繋がらなくてはなりません。
現在の世界は病体です。国家も社会も個人も総て、健全なる肉体と健全なる精神によって、運営されているとは言えません。
国家は、自己の野心と欲望の満足を主に考える人によって、動かされており、個人もまた自己の欲望の為に善悪を無視する傾向にあります。
それが家庭の崩壊を現出させ、夫婦・親子間の不仲不一致の原因ともなっている場合が多々あります。
最早、教育による人間改造、倫理道徳によるしつけ躾では現状を解決することは不可能です。
即ち、問題解決の決定的方策は見つかっていないのです。
そこに出現したのがHRです。
見えざる「力」をもって、見ゆる物を動かす力、これこそ人類待望の幸福を実現する鍵であることを認識してほしいと思います。
平成九年「HRと人間回復」より
その前提として、進歩させるに必要な智慧の発達がなければなりません。
その智慧を進歩させる為に大自然は、人類に天変地異で、不安と恐怖心を起こさせる事象を繰り返し経験させて来たのです。
魚類であれ、動物であれ、生命を保持しようという本能があって、より安全地帯を求めて生を営んでいますが、人間は智慧の発達によって、防衛手段を色々と考えて来ました。
それが火の発見であり、動物相手には槍や弓矢の発明を初めとして、捕獲手段をあみだし、敵を捕らえたり侵入を防いだり、住居を作って安全確保と風雨に備える技術を発達させました。
一方、穀物等の食料確保の必要性から農耕技術の開発となり、特に弥生時代からは、急速に進歩をとげて今日に至っています。
つまりこれは、人間が努力をする目的には、常に生命の安全確保があったということです。
その点から現代文明を検討してみるとき、生命の安全を保証する部分よりも、危険な部分の方が多いことに気付かされます。
人類が智慧を絞り、しし孜孜として作り上げてきた文明を進化させれば、人類待望の理想世界実現は可能であると信じ、
脇目も振らずに突っ走って来ましたが、噴出する様々な問題から、現代文明に多くの欠陥が伏在していたということに、ようやく気付き始めてきました。
それに対し宗教は、唯神思想をもって唯神文化を作らんと、唯物文明の対極に位置して、愛と平和と罪の自覚を説き、
善悪のしんたい真諦を教えて、宗教信者の獲得に努力をしてきていることは承知の通りであります。
ここで宗教内部のことをとやかく論ずる気持ちはないが、矛盾が内在していることもたくさんあります。
それは一方で、愛と博愛、平和思想を打ち出して実践しつつ、一方では善悪を明瞭にするため宗教は常に善であり、
対する相手は悪という図式を作って集団の引締めを計ると共に、相手集団を仮想敵視して精神的戦いを挑み、精神の高揚が争いの発端をつくり、
地域または集団同志の対立を生み、殺傷沙汰から国家間の戦争までをも引き起こしてきました。
生々しい体験である太平洋戦争も一面は、キリスト教と仏教・神道思想の戦いであったということもできるでしょう。
その戦争中、聖戦といって戦いは善であると吹聴し、多くの若者がかりたてられ、死という代償を払わせられたり、家族の離散、
爆撃による犠牲者の数はおびただしい程ありましたが、終戦と同時に人を殺すことは悪だ、戦争は罪悪の最も大きなもので、
神や仏の意図とは全く違った考えであると、戦争賛同者が一朝にして寝返り、逆な説法をして民衆を引き付けていました。
また、戦後もイスラエルと中東諸国の紛争や、アメリカとイスラム原理主義との紛争等、宗教を背景とした争いが現在まで続いています。
一方、まだ懲りない唯物側の人々は、神仏の存在を相変わらず否定して、唯物科学の進歩と仕組みによって、人類の幸福は得られると主張をし、
科学の進歩と法の充実に力を入れて、今日絢爛たる文明社会を築き上げました。
しかも、唯物科学が踏み込んではならない最も危険な分野、即ち人間の生命までも唯物科学によって左右できるとして、進歩させて来たのが現代医学であります。
見える物、科学的に実証される物しか信じない現代人はどうしても、その方向に流れてしまいました。
既に述べたように、冷静になって現状を検討してみると、幸福になるよりも、不幸になっている人が如何に多いことか。
また、絶望とまではゆかなくとも、人生に希望を失い、家庭内のトラブル、失敗、失業、病気、事件、事故等々の、生命をも脅かされるような出来事が身近に多発しています。
このような現実を直視する時、唯神思想にもそれほど大きな期待がかけられず、と言って、唯物思想にも限界があることが分かって、
何れにも一身を委ねることは余りにも犠牲が多すぎる。
故に、現状は何を信じてよいのか、漠然とした不安をかかえているのが現代人ではないでしょうか。
その時期に突如現れたのがHRです。「HRは再三に亘って書いたように、唯神・唯物の調和と協調に大きく貢献し、分散化の方向にある総てを統合する働きが含まれています。
勿論、その力は善であることは申すまでもありません。
何となれば、生命を生かす力は善であって、健全な生命を育むところに正しい進歩と、発展があるからであります。」
以上を簡単に言えば、人類は今、生命健全化を可能にする超人力を待望し、その力にすがって生命の安全を希求しています。
その人類の願いを実現する力は、既に出現して活動を開始しています。それがHRです。
「人類の理想である、病気・貧困・争闘のない世界が、HR普及運動によって可能となるのです。」
HRの普及運動を、唯、単に個人の幸せを確立する為に行うのではなく、個人の幸せは社会の幸せであり、社会の幸せは国家の繁栄に繋がらなくてはなりません。
現在の世界は病体です。国家も社会も個人も総て、健全なる肉体と健全なる精神によって、運営されているとは言えません。
国家は、自己の野心と欲望の満足を主に考える人によって、動かされており、個人もまた自己の欲望の為に善悪を無視する傾向にあります。
それが家庭の崩壊を現出させ、夫婦・親子間の不仲不一致の原因ともなっている場合が多々あります。
最早、教育による人間改造、倫理道徳によるしつけ躾では現状を解決することは不可能です。
即ち、問題解決の決定的方策は見つかっていないのです。
そこに出現したのがHRです。
見えざる「力」をもって、見ゆる物を動かす力、これこそ人類待望の幸福を実現する鍵であることを認識してほしいと思います。
平成九年「HRと人間回復」より